足し算と引き算

「足し算と引き算」

詩:谷川俊太郎

何もないところに忽然と立っている
ひとりの女とひとりの男
そこからすべては始まる

青空?よろしい青空をあげようと誰かが言う
そしてふたりの頭上にびっくりするような青空がひろがる
地平線?よろしい地平線をあげようと誰かが言う
そしてふたりの行く手にはるかな地平線が現れる
その誰かが誰かはいつまでも秘密
ふたりはただ贈り物を受け取ることができるだけ

それからこの世の常で ありとあらゆるものが降ってくる
お金で買えるものもお金で買えないものもごたまぜに
ふたりはとりあえず椅子に座る
椅子に座れるのは幸せだ
次にはテーブル
それがいつの間にか見慣れたものに変わっていくのは幸せだ
朝の光の中でふたりはお茶を飲む
いれたてのお茶を飲むのは幸せだ
だが何にもまして幸せなのは
かたわらにひとりのひとがいて
いつでも好きなときにその手に触れることができるということ

昔はそんなのはプチブル的だなんて言う奴もいた
でも今じゃみんな知ってる
幸せはいつだってささやかなものだってこと
不幸せはいつだってささやかなんてものじゃすまないってこと

しかし幸せはいったいどこまでささやかになれるんだろう?
この当然の疑問に答えるために
ふたりは茶碗をたたきつける
テーブルをぶっこわす
椅子を蹴倒す
この世の常なるものをなにもかも投げ捨てて
青空を折り畳み地平線を消してしまう
そして少し不謹慎かもしれないがすっぱだかになる
驚くべきことにそれでも幸せはちっとも減らない

ひとりの女とひとりの男は手に手をとって
我ながら呆然として何もないところに立ち尽くす
すると時間の深みからまたしても
あの秘密の誰かの声が聞こえる

「なにもないのになにもかもある
それこそ私の最大の贈り物、それを私は愛と呼ぶのだ」

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