昔から中国では国家権力の介入を嫌い、自治自在の郷村社会を志向する傾向が強かった。このような志向を為政者の政治哲学として結晶させたのが「老子」である。
「老子」はこんなことを言う。
川の流れが岩を避けて上流から下流へ流れてゆくように、作為を避けて、無為自然に流れに従って生きれば、ものごとに拘泥することはない。小魚を煮る時は、やたらとかき回してはならない。かきまわすと小魚の骨はバラバラにくずれてしまう、国の政治もそれと同じように慎重に対処するのがコツである。
この「老子」の考え方を実際に行動にうつして名宰相と言われたのが前漢(紀元前200年頃)に丞相(大臣)の位についていた曹参だった。
曹参にはこんなエピソードがある。
前任者の丞相が死去すると、後任として彼は中央政府に呼び戻されたため、任地を離れることになった。彼は任地での後任者にこう語っている。
「獄(訴訟)と市(市場)には、くれぐれも慎重に対処してほしい。あまり厳しい態度で臨まぬほうがよいと思う」
後任者が
「政治には、それらよりももっと大切なことがあると思いますが・・・」
と反問したところ、曹参は、
「いや、獄と市とは善悪二つながら包み込んでいるところ。厳しく取り締まれば、悪人たちが身の置きどころに窮してしまう。そうなれば、破れかぶれで反乱を起こすかも知れない。それゆえに、私はこの二つが重要であると言っているのだ」
勘どころを押さえていればそれでよいというやり方である。
その後、曹参が中央政府の宰相になると、優れた前任者が定めた法制・しきたりを忠実に従い、何一つ変更しなかった。寡黙で重厚な人物を選んで事務官に登用し、名声を上げたいばかりに厳しく法を執行するような人物は容赦なくクビをきった。
さらに、事務官にいささかの過失があっても一切とがめず、それを隠して表沙汰にしないようにした。そのため、丞相府の中はいつも和気あいあいとして、まったく問題が起こらなかったという。
彼の執務ぶりは、夜も昼も酒ばかり飲んで、政務にはまるで身を入れなかった。重臣や部下の中にはさすがに見かねて意見をしにやって来る者がいた。
そうすると曹参は、「一杯どうだ」とすかさず酒を進めて、切り出す余裕を与えない。結局、相手は肝心の意見など忘れてしまい、ほろ酔い機嫌で帰っていくのが常だったという。
曹参は老子が言う「無為清静」にひたすら徹しているのである。これは外部から見ると、やる気があるのかないのかわからない、不真面目な態度に映ることだろう。
時は流れて、前漢王朝は二代目の皇帝・恵帝の時代になった。
若い恵帝は、曹参が職務放棄しているように見え、自分をなめているのではないかと思い、ある日曹参を呼び出してきびしく叱責した。
そこで、曹参はこのように述べた、
「陛下は先代とくらべて、どちらが能力に優れているとお考えですか?」
「自分は先代には及ばない」
「では、私と前任者の丞相ではどちらが優れているでしょうか?」
「どうもそなたの方が及ばないようだ」
「陛下の仰ることは正しいと思います。優れた先代の皇帝と丞相が天下を定め、法令はすでに明らかになっております。我々はそれを守って間違った考えを起こさなければ、それで失うことは何一つありません。それでよいではありませんか。」
そう言われて、若い恵帝は納得してそれ以上追及しなかったという。
壊れたら修理をすればよい、建て替え工事などはめったにするべきではない。という「老子」の考え方に沿った、微調整のすすめのようなエピソードである。
後日、歴史家の司馬遷は、曹参をこう評している。
「秦の残酷な政治の後で人民とともに休息し、無為自然にまかせたので天下の人々はみな曹参の徳をたたえた」
(守屋洋氏の著作より引用)